関西圏の中学受験で、大手の学習塾が、受験生をミニ講義的な場にいったん集め、集合時間直前に、受験生を一列、ないし、二列に並べて、講師たちの作る花道を通して試験会場へと送り出したり、あるいは、正門の前や校舎前で、送り出したりする光景が、コロナ前までは当たり前でした。
一般の方でも、ご存知の方がいらっしゃるかもしれませんね。
あの、整列させて、送り出す、という習慣、ほぼほぼ慣例的なものではあるのですが、あのなんとも言えないバタバタしているタイミングで、塾の講師たちのうちの一部が、多塾の生徒の数を読んでいるという事実をご存知の方は、一般の方には少ないのではないかと思います。
そして、本当に、こういうことをやっている、あるいは、やっていたのですが、そんなことは、塾同士は互いに織り込み済みですから、ある意味開き直って、堂々と、それぞれの塾が他塾の受験生の数読みを行なっているわけです。
ひょっとすると、ぼーっとしているだけの塾もあるのかもしれませんが、少なくとも、灘中合格実績において、かつて、灘の自民党と呼ばれた大手塾と、そこからかつての新進党のように、分裂・独立した多数精鋭を謳っている塾は、やっていました。まあ、そもそものカルチャーが同じですから、同じことをするわけです。
生徒を最後まで励ましながら送り出したい、という気持ちと、他塾が何人、受験させているのかを知りたい、という情報戦のせめぎ合いが、あの、整列入場と、送り出しの光景に秘められたものであることを心の隅に置くと、また、違ったものが見えてくるかもしれません。
首都圏ともなると、受験生の数や規模のために、常識的に考えて、この風習は機能しないはずですから、関西圏での独自の風習ではないかとは思いますが、定かではありません。
さて。
一定以上の人数を、それなりの学校に送り出す学習塾の間では、講師同士が、個人的に親しいケースが、まま、あります。そして、その講師同士が、それぞれ、相手の塾が、どれだけの人数を受験させたかを把握しようとして、うちは何人受けたけど、そちらは何人ですか、というような情報交換することも、当然、あります。
ここで問題になるのは、交換される情報に、とんでもない偽りが、意図的に混ざってくることがある、ということです。
例えば、A氏とB氏の間で交換された情報と、AA氏とBB氏の間、AAA氏とBBB氏の間でそれぞれ交換された情報に、天と地ほどの数字の開きが出現することがある、ということです。
数を読む、という習慣は、こういった誤情報を、ある程度まで防ぐために、自然発生的に始まったものでもあります。
ちなみに、かくいう私は、間違った情報を伝えたことも、間違った情報をつかまされたこともありませんが、誤情報をつかまされた人々から、絶対違う、と、何度も嘲笑されてきた苦い経験を持っています。
誰が正しいのか、ということについては、最終的には、時間や現実が証明してくれるわけですが、なにゆえ、毎年毎年、懲りもせずに、偽情報をつかまされてくるのだろう、この人たちは、と、同僚の行為や精神状態に疑いを抱いていたことは事実です。
信頼し合っている個人同士を仲違いさせるための離反作戦、ということなのかもしれませんが、その手の神経戦に血道をあげるような手合いが、一時期、非常に多かったように、感じています。
過去投稿にあります、関西圏での中学受験における、多塾の受験生の数の把握が、思いがけない場面でその意味を発揮することがあります。
それは、合格率のトリックを明らかにするような場合です。
大手塾では、合格者数を発表するのが通例です。それなりの数の受験生を擁していれば、学校の発表している倍率通りであっても、それなりの合格者数が担保されるのですから、当然とも言えます。しかも、かつての大手塾のスケールメリットは、やはり侮れないものがあって、倍率は、学校発表のものよりも、塾内でのものの方が、当然のことながら小さくなります。
ところが。
合格者数ではなく、合格率を発表するような、イレギュラーな塾が、稀に存在します。その場合、合格率は、受験者を分母にしたものではなく、模試でのA判定を分母にしているという、なかなか、斬新な操作が、受験生の数の把握によって明らかになることがあります。そして、合格率と合格者数が併記されている場合でも、この、分母はA判定、という斬新な操作が行われているケースもあるようです。合格者数と合格率を突き合わせれば、簡単に、分母となる数字が出てくるのですが、それが、現実に受験生として入場した生徒よりも、はるかに少ない場合には、その操作が行われている、ということになります。
現実には、A判定でも不合格になるケースもありますし、B判定やそれ以下でもでも合格するケースはありますから、差し障りのない範囲での誤差だと考える向きもあるかもしれませんが、合格率と併記して、何名受験、と公表されていても、それが、実数であるとは限らない、ということです。